◇ Q、白い服を着た、彼。
わたしが、白い服を着た"彼"と会うときは、常に二人っきりだった――。
真っ白い部屋と同調するかのような白い服が印象的な彼は、たびたび私の元へ訪れては他愛ない話をしてくれる。
生まれつき体の弱かったわたしは、今でも常に点滴を受けてないといけないようで、この部屋から出ることすら叶わなかった。
でも、それで良い。わたしは彼以外の人間を知らない。他の人がこの部屋を訪れることもないし、わたしも見たことはない。
彼はわたしの部屋に来ると、まず机の上に置いてある少し大きめの砂時計を逆さにする。
砂が全部落ちきると、また逆さに。この動作に意味があるかのように、よく砂の量をわたしに注意させながら。
一体、この砂時計は何分のものなのだろうか。この部屋には窓も時計も無いから、具体的な分数は判らない。早いときもあれば、遅いときもある気がする。
ふと扉が開いて、今日も彼がこの部屋へ――。
この部屋の扉が開いて、彼が部屋に入ってくる。やっぱりいつものように一人だった。
彼は椅子に座る前に人差し指をわたしの目の前に置いてから、ゆっくりと砂時計の元へ持ってゆき、それをひっくり返す。
いつものことだから、わたしもその間は何も喋らず、ただ身を任せるように彼の指と砂時計を見つめる。
そして彼が椅子に座ると、いつも通り会話が始まるのだ。
「どうだい、調子は」
彼の澄んだ声が聞こえる。
「殆ど変わりはないです、悪いと言えば悪いんでしょうね……」
苦笑を交えながらわたしは返した。
「そうか……いつ」
彼の言葉が途中で途切れたようだったが、少ししても彼は何も喋ろうとしなかったのでわたしがどうかしました? と、訊ねる。
彼はにっこりと笑うと、なんでもないよ、と、返した。
その後はいつものように軽く会話をして、彼は別れ際の言葉を残して部屋を出る。
また、明日――。
彼の明日というのは、わたしの感覚では数十分にも満たない。
もしかすると本当に次の日なのかもしれないけれど、やっぱり時間の経過が判らないこの部屋の中では確認する方法が無い。
やはり少しも待つと、彼は再び部屋にやってきた。
先ほどのように、椅子に座る前に人差し指をわたしの目の前に置いて、砂が全て落ちきった砂時計をひっくり返す。
彼が去る前はまだ砂が流れて居たような気もするけど、意外と時間が経っていたらしい。……とは言え、それももういつものことで慣れっこだった。
彼が始めて砂時計を使った時はとても不思議に思ったものだ。
すぐにまた戻ってくるのに砂が流れて居ないのはおかしいと思い、砂時計を眺めて居たこともあったが、やはりわたしの杞憂に過ぎず、しっかりと砂は流れきっていた。……少なくとも、わたしにはそう見えた。
「どうだい、調子は」
彼がわたしに尋ねる。
僅か数分しか離れていないのになぜ毎回それを聞くのか、少し前に尋ねたこともあったが、答えられない、といったふうなやわらかい笑みを見せられて聞けなくなった。
「殆ど変わりはないです、早く良くなって、外が見たいです……」
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐにわたしと同じ苦笑に変わった。
「そうだね」
もちろん、情報の入らないわたしと彼では共通の話題が出ることなどなく、話は大体『将来』や『夢』などになる。
大体わたしが主導権を握るのだが、彼はとても聞き上手で、今まで会話で苦痛を感じたことは全くなかった。
何度話しても飽き足らない、数多のケーキに埋もれるわたしの『夢』。
殆ど記憶のないわたしにとって、奇跡的に覚えていたケーキの形、味、におい。
それは、点滴を外せずベッドから降りられないわたしの活力になっていた。
いつか……いつかケーキだけいっぱい食べられるようになりたい。
そう思っていると、どうやらいつの間にか時間が来てしまったらしい。
再び彼は別れ際の言葉を残して部屋を出る。
また、明日――。
たまに、彼が本当にわたしと話してて楽しいのか不安に思うときがある。
部屋を出てくとすぐに戻ってきて、わたしと少し話をしてすぐにまた出ていく。
かといって、この部屋では共通の話題を探すことも出来ない。
だからそういう時は、わたしばっかり話すのではなく、彼の事を聞いてみる。
「いつか、やってみたいと思ったことはありますか?」
少し前、そう彼に尋ねた事がある。
彼は少し悩むように宙を見てにっこりと微笑むだけで、答えてはくれなかった。
それ以来、その質問はわたしの中でタブーとなっていて、聞くことは出来ない。
わたしは彼と話している時間を無駄だと思ったことは無い。
彼以外の人間と話したことも無い。……出合ったことすらも。
気づいたらこの部屋にいて、最初は時間の流れが異様に遅く感じたのを覚えている。
なんで誰もこの部屋に来ないのだろう、それが一番最初に思った事。
それから、どれくらいの時間がかかったのか判らないが、彼と出会った。彼と出会ってからは時間が進むのがとても早く、何より楽しかった。それは今でも変わらず、誰だかも判らない人間に対して心を開いている。
そしてまたすぐに彼はやってきた……何故か、車椅子に乗って。
あんな短時間で車椅子に乗るような出来事が起きたのだろうか? それとも、わたしの時間感覚はやはり狂っているのだろうか。
それでもやることは変わらず、不器用に車椅子を動かしてわたしの前に来た。そして、人差し指をわたしの目の前に置いて、砂時計をひっくり返す。
「どうだい、調子は」
いつも通りの第一声。聞きなれた彼の声が、わたしの心を安堵させる。
「殆ど変わりはないです、早く点滴が取れると良いんですけどね……」
半ば挨拶になっている言葉を、半ば挨拶になっている言葉で返し、彼の顔を見て驚愕した。
血の気の引いた顔で、僅かながら目が虚ろだ。
「だ、大丈夫ですか? 辛いなら今すぐ戻っても……」
「いや、大丈夫だ」
わたしの言葉を荒い息からなる言葉で返し、彼はしばらく目を閉じて呼吸を整えている。
やがて顔の色もだんだんと良くなってゆき、きちんと話せるようになっていた。
「どうしたんですか? その車椅子」
「ん、いや、ちょっとね」
彼はそう言って微笑んだ。……またあの笑顔。
今までも何度か見てきた表情、きっと何かを隠しているときはこう微笑むのだろう。
そう推測は出来るものの、結局私は問いただすことも、おそらく理解することも出来ない。
そんな事を考えているうちに、やはり無理をしていたのだろう。彼は会話を切り上げた。
「それじゃあ、また明日」
そう言って彼はこの部屋を後にする。
きっと、またすぐに彼はやってくるはず。車椅子など無かった事のように元気な姿で。
だから、私は彼を待っている。 |